知能は縁起の中から生まれ、悟りによって成長する
それでは「体験」とは何でしょうか? そもそも、なぜゲーム中のキャラクターは「体験」をしていない、といえるのでしょうか。実際、ゲームのキャラクターも世界からさまざまな情報を取り込み、意思決定を行い、行動しています(過去の議論で何度も登場したエージェントアーキテクチャであり、インフォメーションループ(フロー)です)。しかし、これだけでは情報の巡回にすぎず、人工知能は単なる情報処理マシンに留まってしまう……そのように三宅氏は指摘します。
情報処理と体験との違いとは何か。三宅氏は情報処理を「主体(人工知能)と客体(世界)に分化された関係性の中で、主体が分節化(=記号化)された世界の情報を扱うこと」と論じました。これに対して体験とは、「主体と客体が未分化の状態で、分節化される前の『むき出しの世界』に主体が直面し、両者が混じり合いながら、互いに変化していくこと」だとします。このことは、日本における禅宗が鎌倉時代、経典仏教に対する批判から成長してきた経緯とも符合します(=座学重視ではなく経験重視)。
その上で三宅氏は第4回で解説された「華厳哲学」をベースに、人工知能と世界を分けずに、知能の一部を世界に明け渡し、世界の発展と共創して、知能を高めていくという考え方を提示しました。華厳哲学では知能は森羅万象の関係性(=縁起)の中から、浮かび上がってくるものとして捉えます。具体的にはキャラクターの中に、特定の環境と人工知能との関係性をたくさん構築し、そこからボトムアップで人工知能を構築していくというアプローチを示しました。
「人工知能は内部で自己完結すると、どんどん環境から遠ざかっていきます。常に環境と絡み合った存在として知能を考えることが重要です」(三宅氏)。環世界に関する議論で示されたように、生物は世界における無限の情報を、特定の感覚器を通して有限情報にスクリーニングした上で、世界を認識しています。実際、ハエにはハエの、犬には犬の、人間には人間の、世界に対する捉え方があります。知能は身体を通して、これらの世界と関係性を持ちつつ、知能を構成しています。
もっとも、知能といっても一枚岩ではなく、物理的なレベルから抽象的なレベルまで、さまざまな知能と環境の結びつきがあり、階層構造を取ると考えられます。そこからさまざまな体験が生まれて、フレームが作られていく。そして、そこから悟りを繰り返し、意識に近づいていくというモデルです。当然、双子でも行動や性格が異なるように、環境や行動によって、同じ人工知能でも異なるフレーム、すなわち自我を持つことになるでしょう。それこそが人間らしい人工知能なのかもしれません。