人間は体験によって帰納的にフレームを獲得する
はじめに三宅氏は、これまでの議論をふまえつつ、「人間は煩悩のかたまりなのに、人工知能は煩悩を持ってくれない。煩悩を持たず、ゲーム内世界に執着しないため、行動や思索が非人間的になってしまう」と切り出しました。人間は煩悩のかたまりで、仏教では煩悩を捨てて現世から解脱すれば幸せになると説き、その手段として禅があるとします。しかし人工知能は煩悩を持たないため、まず煩悩を持たせた上で、そこから禅によって解脱させることが目的となります。
もっともここでいう「禅」とは何でしょうか? 三宅氏は「禅は修行によって仏陀の到達した悟りの境地にいたることで、言葉で表すことはできず、体験によって得られるもの」だと前置きしたうえで、既存のモノの見方や価値観を破壊し、拡張する行為だとまとめました。そして、この「既存のモノの見方や価値観」が人工知能におけるフレームに存在すること。そして、人間はこのフレームを自ら創り出し、破壊と再生を通して拡張させられる点が、人工知能と異なる点だと指摘しました。
それでは、人間はフレームをどのように設定しているのでしょうか。それは個々のさまざま体験を通して、ということになります。新生児は成長の過程でさまざまな経験を行い、帰納的な方法論をとりつつ、各々のフレームを作り上げていきます(これが自我に相当する、ともいえます)。各々のフレームは固定ではなく、成長の過程で外部からさまざまな刺激を受け、拡張されていきます(いわゆる「視野が広がる」的な言われ方です)。禅もまた、このフレームを拡張する『体験』の一つだと言えます。
このように、体験によって構築されたフレーム(自我)を、禅という体験によって破壊・拡張しながら、より大きな悟りに結実させていく点が、東洋哲学のユニークなところです。そのため、悟りはどこまでいっても個人的な『体験』に留まり、普遍化したり、言語で説明したりできません。三宅氏も「西洋哲学の『理解』は、東洋哲学からすれば何も理解していない。逆に東洋哲学の『悟り』とは、西洋哲学から見れば『個人的な理解』にすぎない」と補足します。
ポイントは「西洋哲学は問題を直線的に解いていくが、東洋哲学は様々な体験を貫く『神髄』を見つけることに特徴がある」という点。そして、西洋哲学をベースに発展してきた人工知能が行き詰まりを迎えつつある点です。その一方で西洋哲学は20世紀に入り、現象学を生み出すことで、新たな飛躍を遂げました。もっとも、現象学的なアプローチは2~3世紀のインドで、すでに誕生ずみ。だからこそ、「西洋哲学だけでなく、東洋哲学に学べ」というわけです。
実際、人工知能は人間のようにフレームを設定することもなければ、拡張することもできません。その理由は三宅氏によれば「人工知能は外界から情報を抽出するだけで、真の意味で『体験』をしていない」からだということになります。このことは裏を返すと、「人工知能が人間のような『体験』をすれば、その『体験』を通してフレームを自然に生成させることができる。そしてフレームが生成されれば、それを『悟り』によって破壊・拡張させられるようになる」というロジックが成立します。