人工知能にはコンテクストが足りない
セミナーははじめに、前回の内容の復習から始まりました。機能論ベースの西洋哲学と、存在論ベースの東洋哲学。両者は対照的でありながら、「人間(の内面)」を接点につながる、コインの裏表のような関係です。三宅氏は前回に引き続き、井筒俊彦氏のアラビア哲学に関する研究を元に、両者の関係性について解説。その後、エージェントアーキテクチャに代表される既存の人工知能に対して、そのインフォメーションループを二重に拡張するというアイディアを示しました。
その上で今回、このモデルを拡張する概念として示されたのが、「コンテクスト」です。コンテクストについて、「外部から人間に取り込まれ、無意識下に堆積されつつ、何かの表紙に意識に上り、行動を決定づける要因となる情報」と説明する三宅氏。食事をしたい、休息したい、ゲームを遊びたい……。これらはコンテクストの例で、人間は誰しも無意識下で複数のコンテクストを同時に実行させています。そして、その時々で優位を得たコンテクストが意識にのぼり、行動に移されるというわけです。
三宅氏はこうしたスタイルをとることで、人間は突発的な状況にも的確に対応できるといいます。いわばマルチスレッドで動作するCPUのようなもので、AがダメならB、それでもダメならCといった具合に、次々に実行プログラムを変更できるというわけです。このように考えると、知能には複数のコンテクストを取捨選択したり、さまざまなコンテクストをまとめあげ、未来に向けて送り出したりするアルゴリズムが備わっており、これが個性と呼ばれるものにつながると整理できます。
では、コンテクストの統合と主体的時間はどのように関連するのでしょうか。西洋哲学編第四夜では、デリラが提唱した「差延」という概念を手がかりに、人工知能と主体的時間について議論が行われました。デリラは人間の特徴として、自己を対象化できることを上げました。もっとも対象化された自己は、鏡に映った自分と同じで、対象化された瞬間に過去の存在となります。そして差延(=時間)によって創り出された自己対象化の連続体が、知能における主体的時間のベースになると論じました。