アニメと、ゲーム。
手法は違えど、人を楽しませる点では、同じエンターテイメントです。
そして、それらの表現の中には、いつの時代も人を惹きつける「シナリオ」が存在しています。
今回、NPO法人IGDA日本は11月26日にセミナー「とあるゲームシナリオライターのサバイバル術。FFから現在まで。」を東洋美術学校で開催しました。
アニメーションでは「きまぐれオレンジロード」「深海伝説MEREMANOID」。
ゲームでは「ファイナルファンタジーI」「II」「III」のシナリオなどを手がけた寺田 憲史氏を講師に迎え、ゲームの制作秘話や、シナリオライターとしての心構えなどが共有されました。
ファイナルファンタジーが生んだ、ゲームシナリオライターへの道
1959年に「少年サンデー」「少年マガジン」といったメジャー漫画雑誌が相次いで創刊。
1963年には国産アニメーション第一号の「鉄腕アトム」が放送開始。
1952年生まれで、漫画やアニメ産業が産声を上げ始めた頃に多感な時代をすごした寺田氏は、これらの作品群から多大な衝撃を受けたといいます。
長じてアニメーション制作に携わり、日活ロマンポルノの助監督も手がけることに。
そんな寺田氏も、当初はゲーム関係の仕事とは全く無縁でした。
当時は、ファミコンすら存在しておらず、任天堂といえば「花札」といった認識程度で、どちらかと言えば、ゲーム業界は理数系なイメージがあり、敬遠していたという寺田氏。
そんな寺田氏がテレビゲーム業界に関わるきっかけになったのが、「高校の友人が作った会社の手伝いをして欲しい」と知人から誘われたこと。
それこそが「スクウェア(現スクウェア・エニックス)」であり、「ファイナルファンタジー」でした。
当時のゲーム業界はまだまだ創世記で、開発現場でもアメリカ産のPCゲームを翻訳しながら遊んでいるような状態。
元スクウェアの坂口博信氏(以下坂口氏)も、遊びに遊びまくっていたといいます。
一方で坂口氏は大のアニメファンでもあり、「スペースコブラ」「未来警察ウラシマン」「よろしくメカドッグ」といったシナリオを手がけていた寺田氏に、興味を覚えたのだとか。
一度会ってみたいと坂口氏からオファーがあり、スクウェアに足を運んだのが出会いのきっかけでした。
ただし当時の寺田氏は、そこまでゲームに詳しいわけではなく、正直なところゲーム業界に関わっても、「やることがない」と感じていたといいます。
ただ彼らがアニメや漫画のファンだったということもあり、飲んでいるうちに仲良くなっていき・・・。
そうこうするうちに、『ファイナルファンタジー』のシナリオを書いて欲しいと依頼を受けたのでした。
しかし、ゲームのシナリオをどう書いていいかわからかった寺田氏。
ゲームを遊ぶ人に対して、どういう仕掛けにすれば喜んでもらえるか、まずはそれを徹底的に調べたといいます。
そして坂口氏にヒアリングを行った際に、
「(プレイヤーを)泣かせたい」
というキーワードが出てきたのです。
人に涙を流させるには、そのシナリオに見合った音楽が必須と考えていた寺田氏。
誰かが死ぬといったシーンで、感動的な音楽と一体化した表現を描けば、ゲームでもプレイヤーを泣かせることができるのではないか・・・そんな風に考えたといいます。
その後、音楽を「ファイナルファンタジー」サウンドの代名詞ともいえる植松伸夫氏が担当することに。
結果として「ファイナルファンタジー」は大ヒットを記録し、倒産の危機を迎えていたスクウェアを救うことになったと、寺田氏は当時を振り返りました。